第1回「海と陸の間の世界」 (『聖戦士ダンバイン』より)
サンライズロボット研究所内で行われている、研究員に向けた多角的知見を養うための指南講座。今回は『聖戦士ダンバイン』より指南講座第一回目をお届けします。
◆ バイストン・ウェル ~魂の安息の地~
「バイストン・ウェルは人の魂の安息の世界として、悠久の時を重ねた。しかしこの100年余りの世の乱れは、歴史が我らコモンに、証の時を与えたのであろう」[ドレイク・ルフト/ラース・ワウの園遊会にて]
我々の住む世界と裏表、鏡合わせのように在る――あらゆる魂が生と死を通して行き来する世界。地上という来世が確定しており、そのために、純粋に欲望を体現、表出する魂たちの遊び場。其処では魂は肉に拠らず、生命の無意識が天地に満ちる力となって、世界を支える。
魂の安息の地――「バイストン・ウェル」。
生と死が肉体と魂を分かつように、地上との境は侵されざる禁忌――そのはずであった。
▼海と陸の間の世界
「バイストン・ウェル」とは何か。当地の人々は――また、それを伝え聞いた地上の我々も、その夢幻的な彼処を「海と陸の間の世界」と称す。その言葉が有する想像力は甘美であり、マスカレイドのごとく人々を誘い、魅了し続けてきた。しかし、諸君がバイストン・ウェルを探求、解読しようというのならば、数々の不思議を発見し、悩まされることになろう。
まず、「海と陸の間の世界」とは何か、その意味を明確に答えられるであろうか。
言葉通りならば水平線を示しているように思えるし、あるいは海の底の底、海と地殻の境目のことかもしれない。いや、バイストン・ウェルへ人々を召喚される現象の多くは、海から離れた陸地で発生しているのだから、地平線を指しているのかもしれないし、あるいは海というのは天の海、宇宙のことであり、地球のような星々と宇宙の関係を示しているのかもしれない。と、このような議論が云十年と繰り返され、しかもことの本質から外れていることは研究者の間では周知であって、本件については、とりいそぎ〝象徴的表現としての海と陸の間の世界〟という表現が正しい ということで結論は付いている。しかし、それにも「現在(いま)のところは」という括弧書きが続く。なぜなら、生体のエナジィ=オーラ力(ちから)によって支えられているバイストン・ウェルという界=スペースは、いまもなお拡大と膨張を続けているからだ。それは地上の人口が激増していることと無関係ではなく、いずれそのスペースが抱えきれないほどのオーラ力に満たされたとき、あるいはこの宇宙が衰微した果てに、バイストン・ウェルは蓄えたエナジィをもって別の時空へ渡りゆく可能性すら秘めているという。
また、先行する多くの研究において、次のような言説がある。スィー・ウィドー なる巨大な藻の柱がつらぬくバイストン・ウェルの天地には、太陽も月もない。しかし、夜の天に、月の光に似た光の集まりを見ることはできる。
青白く光るその光は、月ではない。天空にある海底に生息する深海魚の群れが集まり、大きなかたまりとなってバイストン・ウェルを照らしているのだ――と。この表現は事実であって、しかし大きな誤認を招く危険性をはらんでいる。このとき、バイストン・ウェルのコモン界から見上げる天空=海底とされるものは地上の海底では、ない。それはフェラリオたちが住む水の国ウォ・ランドンの底面、コモン界との境界を見上げているのである。
このバイストン・ウェルの「月の光」をめぐる認識を誤ってしまうと、冒頭に述べた「海と陸の間」という表現を言葉通りに解釈してしまうおそれがある。
よって、我々がバイストン・ウェルを探求し、何かしらを知ろうとするとき、その物理的な在り処を論ずることと、「バイストン・ウェルという世界(の在り様)」を論ずることを明確に区別しておかねばならない。本稿では一般的な認知である「海と陸の間の世界」という表現でまずは通し、論点を「バイストン・ウェルという世界」に集中させたい。
さて、そのようなバイストン・ウェルを指し示す「海と陸の間の世界」という詩的な表現の解釈において、海は渾沌とした無意識を、陸は明確な意識下の現世を示している と見る説がある。生と死、現世と霊界的なものの表現といってもよいであろう(このように観念的なテーマとなるため、先の区別が必要である)。
人類の死生観を引き合いに出すと、より理解が進む。たとえば、現在の地上に生まれた命は、人であれ、他の動植物であれ、虫であれ、死ぬ。命あるもの、生まれたものは等しく、死すのである。だが――そのような生命が、無から発するわけではない、ということも人々は知っている。命は地に還り、海へ沈み、そしてめぐり来るものだと知っている。そして、そこに魂の輪廻という想像が生まれる。人は無に戻るのではなく、その魂は再び還り来るものだと、世界の多くの神話や信仰を通して語られ続けてきた。なぜか? なぜ人は「生死のあとさき」を感じ、語り、そこ――魂の安息の地へ還っていくことを夢想するのか? そうした疑問が心に湧き上がるとき、人はすなわちバイストン・ウェルを想っている。そのような想像こそ、バイストン・ウェルという存在の端緒であり、根源であるからだ。
つまり「バイストン・ウェル」とは何か――その問いは「人はどこから来て(生前)、どこへ行くのか(死後)」という哲学に等しい。人がその歴史の中で思い煩い、問い続けてきた想像の極地であり、源泉である。だからこそ、人は語る。魂の原風景たるバイストン・ウェルという世界の在り様に心奪われ、伝えようとする。バイストン・ウェルこそは人の心の故郷であると、直感的に信じることが出来るからだ。
しかして、当講座は先人たちの研究に敬意を表してバイストン・ウェルを織り成す諸々を整理すると共に、新たな調査と考察の培地となることを願うものである。