第10回「ミ・フェラリオ――チャム・ファウと聖戦士」(『聖戦士ダンバイン』より)
◆フェラリオ ~バイストン・ウェルの意思~
「空に月、月に水、森にホタルが飛ぶ。森の精よ、森の精よ、ホタルたちを呼び集めておくれ。ホタルたちよ、月の精霊たちよ、この指とーまーれ!」[チャム・ファウ/月の森にて]
「聖戦士」ショウ・ザマの物語は、エ・フェラリオ――シルキー・マウが開いたオーラ・ロードに導かれて始まり、ミ・フェラリオ――チャム・ファウと共に結した。フェラリオは魂の修行を通じて、上位になるほどバイストン・ウェルの世界そのものに近づいていく。バイストン・ウェルという世界が自身の破壊をおそれ、再生を意識したとき、外的因子のひとつとして地上人を招き入れる、その役を彼女たちに担わせたのか。フェラリオへの興味が、人をバイストン・ウェルの深淵へと誘う。
▼ミ・フェラリオ――チャム・ファウと聖戦士
バイストン・ウェルにおける人々(コモン人)とフェラリオの棲む界(スペース)については、第一章内「天と地と、世界の構造と階梯」において述べた。本稿では、フェラリオそのものについての整理を行っていく。
まずはミ・フェラリオである。「聖戦士」ショウ・ザマと共にあったチャム・ファウ、ナの国の女王シーラ・ラパーナ付きのエル・フィノとベル・アールらが代表として想起されよう。彼女たちは地上に浮上したバイストン・ウェル一同に属し、妖精然とした姿で認知度も高い。身長は30~40cmほどの姿で、コモン人同様に男女の差がある。背中にもつ4枚の羽は滞空、飛翔を自在にこなす(これをコモン人は「むやみに空を飛ぶ」として忌み嫌う)。性癖は軽薄で人々の生活における倫理観というものがなく、ひとつのことを集中して行うことができない。魂のもっとも自由な形での表出とされ、端的に表現して地上における「妖精」そのものである。バイストン・ウェルの視点から見れば、地上での「妖精」のイメージこそ、ミ・フェラリオの記憶のあらわれなのであるが――。
ミ・フェラリオは嵐の壁と呼ばれるオーラの障壁で囲まれた結界内に咲く花から生れ出でて、数十数百年を暮らす。「クスタンガの丘」と称されるこの夢幻郷は、コモン界に数箇所存在することが判明している。ミ・フェラリオはこの「クスタンガの丘」で成長し、水の国ウォ・ランドンへ転生する――エ・フェラリオとなる日を待ち望むのであるが、ごく稀に、コモン界への興味を抱き、紛れ込むミ・フェラリオがいた。きわめて珍しいため、コモン界ではミ・フェラリオが忌み半分にもてはやされるのだが、その歓待がミ・フェラリオたちを堕落させていった。そのために、ミ・フェラリオから他の界に生まれ変わるのは極めて困難とされ、ミ・フェラリオは魂の堕落の象徴として、コモンの人々から蔑まれることにもなったという。
そんなミ・フェラリオの生態を理解するトピックを次に挙げておく。
:食事と睡眠 フェラリオも生物であり、食事と睡眠を取る。オーラ・シップ、ゼラーナ艦内でニー・ギブンの寝床で丸まっている様子があった。また、寒暖差が苦手で、特に地上で寒さというものを経験すると、ブ厚いコートを着込み、暖をとっていた。
:フェラリオの呪い ルフト家領内に棲む男性型のミ・フェラリオにトロウ・ロウという者がいた。酒と軽薄な話が好きという、自堕落を絵に描いたような存在で、しかし、本来のミ・フェラリオとはこれくらい自由すぎるのだと思われる。コモン人のような振る舞いをも見せるチャム・ファウやエル・フィノらが、むしろ特異なのだ。このトロウがショウ・ザマに対して「ミ・フェラリオを殺すと地獄に落ちるぞ、7代先までスウォームに生まれ変わるぞ」という脅し文句を放ったのだが、裏を返せばそのようにコモン人やガロウ・ランに捕らわれ、命さえ弄ばれる例があるということでもあろう。
:語り部 ギブン家に棲むツオーのように、聞いたことを一言一句正確に記憶し、復唱することが得意な者がある。特技や仕事というものではなく、それが彼の魂にとって楽しみなのであろう。また、こうした一芸に秀でているがゆえに、コモン界での暮らしに興味を持ち、桃源郷たるクスタンガの丘から流れ出て来たと考えられる。
:感応と感化 ニー・ギブンのもとに身を寄せていたころは、どちらかといえば「はすっぱ」で小悪魔的な性質を見せていたチャム・ファウ。それがショウ・ザマと出会い、共にダンバインに乗り込むようになると、波長というか、ウマが合うパートナーシップを見せ始め、最終的には一心同体といえるほどの活動を見せる。
そのさまは、大きな責任を負い大人びた(神経質といってもいい)ニー・ギブンに対して、短気で血気盛ん、やや子供っぽさを残すショウ・ザマのパーソナリティに寄っていったものと考えることもできよう。
このようにミ・フェラリオはバイストン・ウェルの物語において様々な顔を見せるのであるが、「聖戦士」に関して特筆すべきはそのオーラ力のブースターのような役割を示したことである。
「聖戦士」ショウ・ザマは類稀なオーラ力を示したことで知られるが、そのときどきで精神面の粗やオーラ力の制御が伴わず、思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。このようなとき、振り返ってみると、コクピットにミ・フェラリオ(チャム・ファウ)の姿がないことに気付く。その逆に、赤い嵐の玉でトッドのビアレスがオーラ力の上振れを発揮した際、オーラ・バトラー「ビアレス」のコクピットには――偶発的にだが――ミ・フェラリオ(エル・フィノ)が乗り合わせていた。これが地上人とフェラリオの組み合わせでのみ起こることかどうかは、他の事例の検証を待つことになるが、ミ・フェラリオ自身は直接的にオーラ・マシンを稼働させるようなオーラ力を発揮するものとは認められないため、「ミ・フェラリオが搭乗者のオーラ力を増す」、あるいは「オーラ・マシンに伝えるオーラ力を増す」媒介としての役割を果たすのは確かなことであろう。
そうであれば、各勢力はオーラ・バトラーにフェラリオを用立てるべきであったのか? しかし、それは現実的ではない。そもそもフェラリオがコモン界で活動することが稀で、ましてや「機械」にパイロットと共に乗り込むなど、奇跡的な巡り合わせとしかいえない。それが当たり前のように成り立っていたことは、ショウ・ザマとダンバイン、そしてチャム・ファウが「聖戦士」の物語を駆け抜ける一因であったに違いない。