サンライズロボット研究所

指南講座
2024.07.26

第12回「浮上――ジャコバ・アオンと怒りの根源」(『聖戦士ダンバイン』より)

 「時は、人の魂に試練を与えているようである。もう我々フェラリオにコントロールは出来ない」

 「せめて、乱れの元凶である機械を、この世界から排除してくれまいか?」

 

 水の国ワーラー・カーレンでショウ・ザマらを迎えたエ・フェラリオの長ジャコバ・アオンは、そのように言った。請願といってよいであろう。だが、その後に考えを急変させたジャコバ・アオンは、ワーラー・カーレンすべてのエ・フェラリオの力を集結し、戦いに集うすべてのオーラ・バトラーや関連する人々を(フェラリオもだ!)オーラの光に包み込み、地上へ「浮上」させたのだった。

 それはあまりにも神秘的な出来事であり、見聞きした者はそれがバイストン・ウェルの意思であるかのように畏縮する。ただし、ここではあくまでも事象を俯瞰せねばならない。この「追放」は先ずジャコバ・アオンの意思であった、ということを前提にしたい。それは絶対の正義や大義ではないし、あくまでもエ・フェラリオの長がバイストン・ウェルの均衡と安寧を、別の言葉でいえば停滞を望む意思が起こしたことであると。

 

 この「浮上」を解釈するために、冒頭のジャコバの言葉から事態を掘り下げてみたい。「時は、人の魂に試練を与えているようである」。時とは世界の動き、流れであり、バイストン・ウェルそのものと捉えてよいだろう。バイストン・ウェルというスペースが、人の魂に試練を与えるとはどういうことか。本講でも述べてきたとおり、バイストン・ウェルとは人の魂――生体力、生体エネルギー(オーラ力)によって成るものである。それが集まり、高まり、澱み、うねり、そういったものが堆積して、天の国ではオージという純粋な光の場となり、地の獄ではカ・オスという悪意のかたまりにもなる。力というのは、正にも負にもはたらくということである。ジャコバは、このオージに近いフェラリオの側の、ワーラー・カーレンの長である。その立場から「もう我々フェラリオにコントロールは出来ない」と言った。では、その逆にコントロールしない=無秩序を望む力もはたらいていて妥当ではないか? むしろ、だからこそバイストン・ウェルはコモン界の人々の衝突をゆるし、オーラ・バトラーの開発まで至ったのではなかったか。コモン界にうねるオーラ・エナジィの正と負のバランス、それがいまは負に傾いた――という状況ではなかったか。

 

 それは大きな「時」の流れの中では、些細な揺らぎであっただろう。「人の魂に試練を」与えるものであったのだろう。だが――ジャコバはそれを受け容れられなかった。エ・フェラリオの長としてのものか、ジャコバの個の性癖というものであったのか――「時」の流れに、ジャコバは抗した。バイストン・ウェルのオーラのバランスを、オーラ・マシンが乱す前の状態こそ、好ましいと考えた。そして、ワーラー・カーレンの総力を結集して「浮上」を起こしたのだ。そうして「時」に抗した結果――永命とも思えるエ・フェラリオでありながら、一瞬にして老い、ジャコバは斃れたのである。

 こうしてジャコバ・アオンは、オーラ・マシンによって増幅された悪意と、それに導かれた者たちを――善かれ、悪しかれ――地上へ放逐した。バイストン・ウェルはひとときの安らぎを取り戻したのであろうか。

 ミ・フェラリオが無邪気に飛び回り、コモンの人々は剣と石の時代にさかのぼり、長き時を過ごすのである。それが正と負のバランスの取れた世界であるとするなら、その逆、世界の変化と拡大を求めるエナジィもあるはずだ。そのあらわれが、ドレイク・ルフトの野心やショット・ウェポンの召喚、オーラ・マシンによる戦乱を呼び、一方ではジャコバ・アオンに過激なまでの現状維持への執心を起こしたと考えられるのではないか。バイストン・ウェルという界、そこに満ちる魂=エナジィのうねりがここに見えるではないか。何が正しいわけでもない、ただ、ひたすらに……貪欲に、魂が輝こうとする渇望のあらわれ――それが動乱を生んだ正体ではなかったか。そう思えるのである。

 

 そして、もうひとつ、大いに見過ごされている事実を語っておかねばならない。エ・フェラリオの長として知られるジャコバ・アオンであるが、実際のところは水の国ウォ・ランドンにおけるワーラー・カーレンの長にすぎない。であれば、男性性のフェラリオが棲むインテランの長もまた、存在しているはずだが、チャム・ファウが語る聖戦士ショウ・ザマの物語においては、コモン界に出ていた数名(トロウ・ロウ、ツオーなど)のほかに関係してきたそぶりが無い。俗界へのかかわりを、ジャコバたち以上に禁じているのか、あるいは、影響を与えているが、チャム・ファウが女性性のミ・フェラリオであるがゆえに、彼女の見聞からは姿を消しているように見えていただけかもしれない。

 仮に男性性のエ・フェラリオ、インテランの長がいたとして、その考えはジャコバと同じであったのだろうか? それとも、コモン界で起こる動乱を「時が、人の魂に試練を与えている」として受け容れ、達観していたのであろうか? その思惑がドレイク・ルフトをはじめクの国のビショット・ハッタ、ラウの国のフォイゾンらコモン界の「男性」の活動を黙認する形であらわれていたとすれば、「聖戦士ショウ・ザマの物語」はまったく別の見地が生じよう。

 

<◆フェラリオ ~バイストン・ウェルの意思~ 了>

 

 

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